種子とり祭

宿(今年の祭事主家)にお手伝いにいく縁者だという方にお招きいただいて、竹富の豊年祭「種子とり祭」に寝袋持参で最終便の船ででかけた。
軽量鉄骨で小体育館ほどの公空間と芝の発達した隣接園地で翌日九時から公開祭事と余興芸能が奉納されるが、祭りは前日の夜からすでに始まっている。

庭から覗き見するのもどうかと思うが、こうしたその他大勢もそれなりに抑制がきいている。 野積みのその壁に腰を降ろすな、と言われている光景もなくはなかったが。

もう10時に帰ると言っている人がいるから、帰路臨時便が夜中にでるのだろう。カメラを持った人が増えている。連写音はあまりしない、動きに乏しい被写体だから。それにしてもわが目よりカメラを信頼する人の群れ。
部落に分かれて、祈祷集団は分散していく。二軒まわったら、自分がどこにいるか分からなくなってしまった。シュラフを置いてきた某デザイナーの別荘(小屋だが大型冷蔵庫が二つもあって、覗くとぎっしり詰まっていた)に辿り着けなければ徘徊はやめられない。

じぇーぺぐは「ベクトル」だそうだが、ベクトルが初めてありがたかった。未明五時までに主家に再び戻るように言われていて、たどり着いた小屋で仮眠。起きたら知らない人が隣にいたら嬉しいな。

二時間ほどの間に、三度時計を見た。五時にもどる。またベクトルに導かれて近づくと一段と灯りが増した気がするが、物音もない。さては早すぎたかと覗くと、しずしずと五穀を掲げて祭事は進行中だった。

再び散会して向かった先には、シャガールが掛かっていた。知らない隣の人にそれを報告したかった。

明けて冒頭の公空間と庭と称した芝の園地で、それから農業になぞらえた余興が一般客を集めてはじまるなか私は島を後にした。

その日の午後もまた翌日も終日ギャラリーを休んだ、徹夜はこの歳に似合わないと思いマシタ。

知人が熨斗袋を用意してくれたのでギャラリーの屋号を書いて、千円札を一枚入れたら、ビール付きのお弁当が付いてきて恐縮。
石組みのノロシ台に登って包みを開くと、さあいただきますの段で幕の内を地べたに伏せた好好爺がご内儀に頭をハタかれていた。
同じように寝る間がなかったのではなかろうか。