狭き門を描いた映画

ツインタワーがつぶれた日を日付けで呼んでいる、津波による原発事故のあの日のように。このどちらもまだ、何の記念日か我々は決めかねている。
「ダウンインザバレー」はデイビット・ジャコブソンの視線がどこから注がれているのか、なかなか分からない居心地の悪い時間をながなが共有しなければならない映画だった。評価を定めるには時を待たねばなるまい、相応の代償と引き換えに。この映画を観るに限ってのことでない。

移民の国アメリカのみならず混ざりあった血がなしとげることだが、その国の文化とはふうがわりな貌(かお)をどれくらい仲間と認められるか度量を問うことだと二つの映画は言っている。

成長すれば案外只のヒトになってしまいそうなある時期の天才の、父をなくしたあの「記念日」の悲惨を丁寧に描けば描くほど、異文化への足らざる想像力に鼻白む。

後者は内なる異分子を、拘りのない眼差しでよくも描けた。異なる貌にも見慣れた目鼻がついており、よく見ないと異常者と分からない。が、ひとたびそれと分かるともう見まがう余地もない特徴的な彼らの共通項に捉えられてしまった。モンゴル症などという命名を偏見と片付けてよいものか。

発達障害とよくも言ったものだ、病名を名付けたときがやまいの始まりだ。アスペルガーなどという、流行語の功罪について云々。