かのう結びとトゥルーラバーズ・ノット

靴のサイズを物指しで測って知っているわけでない、履く靴のサイズ表記から経験的に知っているという人が多いのではないか。

そうしてAというメーカーのスニーカーでは245だが、Bというブランドは小さめの寸法表示だから250が、私にはジャストフィットだ──などと言う。

またC社のは細身で小指が痛くならない一回り大きいサイズ、甲高かの足に合うD社のが私にはピッタリくる──。などと

ブランドごとの寸法表示のばらつきから我が足の様子を認識する、つまりは既製靴を物指しがわりにしているのは靴に限ったことじゃない。

私たちの暮らしに溢れるレディメードの品々をモノサシがわりにして、私たちは自分を知る。規格生産寸法・形状の異なるあまたの大量消費物は、我が身を写すカガミであると言える。

マルセル・デュシャンの「泉」を、こんな未来の予言であったと、今にして読みとくことになった。車で人を轢き殺しても殺人でなく過失だというのは、その責の一部を車が負うからだ。

自動車は非常にたくさんの部品で組み立てられているということは、人の生命に危害を加えた責任の所在を辿っていけないということだ。このまま運転手のいない車が、往来する日が現実のものとなろうとしている。


「キモノに着られる」と久しく聞かないのは、着物に着られるヒトばかりだからだろう──と書くとややこしい。近頃は「られる」を付けとけばよい連中が、着ていらっしゃるお召しになるをこう言うから。何々をヤラレルなんて。

靴紐を結ぶ観点からスニーカーに400足もアプローチしたスタンスを、「まずモノサシを踏んで下さい」としめくくる。「靴をモノサシにしないで」と。靴に履かれない──ために。

以上メモにすぎない。