著作権、ひょうせつと批評。

対象を示さないで批評なぞ、成立しない。創作に他人のモノを取り込むヒョウセツと、批評のための引用が区別されるのは当然のことだ。

批評のためとはいえまるごとソジョウに載せれば、対価を得るべき作者の権益を阻害する。俎(マナイタ)の鯉がお造りになって出てきた。それを釣った漁師だけがお造りを提出できた時代は過去のものになった、こう例えることは出来ないか?

ここまで進んだ複製社会に著作権益の及ぶ範囲の、再検討が必要だ。例を挙げてみる。


   「二紙の一面帯コラム」

若い日に新聞社の整理部にいた後遺症が、これほどあとを引くとは思いもよらなかった。離島石垣にもコンビニは珍しくないが、昼までに店頭に並ぶ全国紙は読売と日経だけだ。

島に限ったことではないがレジで新聞に即応できない店員が現れて、わたしの感想ではもう一〇年になる。たとえば差し出した読売がいくらか、店員はわからないのだ。

そのマが何かと思ったら彼の手の、値段早見表のヨミウリが旧字で読めないのだった。満喫の常備紙も貧しくなった、と書くとトイレットペーパーの話と思われるかもしれない。

前置きが長くなった、以下紙(!)。