「物見台・2」石垣島の盛山という村

資料にあたってみれば、次のようなこと。昭和29年に16世帯37人の盛山は、少なくとも同42年までは14世帯30人が暮らしていたことが新聞資料でわかる。再録したのは石垣市史「新聞集成・1」。
その字名(あざな)からは、津波から逃れた人々が移転先に盛り土して村を再興した様子が想像される。歴史を知ればこうして遠くにのぞむ物見の搭は、消えた村の墓標のようだとだれもが思うだろう。

この石組みの物見台は集落移転の時に築かれたものではなく、物見台の相応しい立地条件は後の津波災害からの避難地選択とも一致したということだろう。
振り返ると恐ろしい波が駆け上がったなだらかな草原のとぎれるところに、白保・宮良の家いえが続いている。その先はもうもう波打際である。白い波頭が、時間が止まったように見える。


島で二月、個展をおえて三月に同企画を二つ持ち越した。白保サンゴ村でのハンモックの設営デモンストレーションと、竹富島の手わざの伝承者に現地の熱帯植物の繊維でハンモックを編むための縄ないを学ぶプランの二つだった。
白保サンゴ村で設営デモを仕舞った日、これでジュースを作りに行こうと声をかけたコがいた。その日設営の参加者はわずかで、仕舞いかけると軽井沢ホテルの自転車でやってきたコで、ハンモックには目もくれず生け垣からこぼれる桑の実を口に運んでいた。
その日なぜだか私も桑の実に目がいって、既述のようにあちこちで拾ってみたりしたものだから。今搬出するから玉取崎の「ウリウリカフェ」まで行って、桑の実持参で頼んでみるのはどうだろう。おじさんのナンパは手が込んでいると思ったかどうか、ごつい流木に編み込んだハンモックを10本も詰め込んだ。助手席との間はややこしい遮蔽物にさえぎられて彼女の表情はうかがえないが、言葉はない。黙っていては桑の実をぜんぶ食べてしまいそうだ。……。
行きつけってほどでないがカフェのおねえさんは、気軽に桑の実をジュースにしてくれた。もう少しボリュームがほしかったな。いまどきのお嬢さんにうけそうな、気の利いた話とはどんなものか。

自転車までもどるのだがその前に、冒頭の個人的発見を誰かに見せたくなったのだった。

今日も白い波が遠くに見えている。「……」。今度島に来るときは、双眼鏡を持ってこよう。