点と線、面や立体だが体積を持たない。

中上健次が文体でないように若松孝二が群像を描いても、時間軸は縦につながって見えない。老けメイクなぞいらない、それは観るひとが頭の中ですればよいこと……、そう若松は考えてきた。

佐野史郎の読経の下手さは、顔の判別できない青年の物腰のテキトーぶりに劣らない。読経はね、呼吸法でしょ。その腰でヨキは振れまいなどと見るか見ないかは、観る心がけの問題だと若松は言ってるのだ。

露地は被差別を指すことなぞ聞かなかったことにする、三文映画だから。若松は出来る範囲のことをやった映画作家だったと、記憶されることになった。不可能に挑むだけが、尊いわけでない。

ご神体は崖で、前面には左撚りの縄が張ってある。そこにこんなふうに下がっている。法政大学出版会のモノシリーズ(ママ)にある縄の巻、今月末遅れに遅れた結びのミュージアム用地取得決済が成るか。

代りに生地に帰る家もなくなったが、次回和田を送った足を熊野にのばそうと思い立った映画を見た朝。
 新藁ができるのも、今年限り。ヨリシロに間に合った。